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世界一の1 年計砂時計と石見銀山への旅

ちょっと一息 | by ダイワ
もう大分前になるがある推理小説の中で島根県の仁摩という町に世界一の砂時計があることを知った。

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子供の頃、家にあった小さな砂時計を何回も何回もひっくり返してはキラキラと輝きながら砂が時を刻むのを見つめた記憶から機会があればその世界一の砂時計を一度見たいと思っていた。
 出雲市から国道9号線を西へ一時間あまり、大田市の西にこの仁摩(JRの駅名は仁万と書く)という町がある。人口5千人ほどのこの町に入ると国道沿いにピラミッドの形をしたガラス張りの建物が見える。


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仁摩サンドミュージアムというこの建物の中にその砂時計が設置されている。この砂時計を最初見たときの印象は『見えない』ということでした。この砂時計は直径1m、高さ5mあり、さらに建物の天井近くに吊り上げられているので砂が落ちる様子が間近に見れないのである。
そのためテレビのモニターに砂が休みなく落ちる様子が映し出されている。
この砂時計は約1トンの砂を使用した世界一の1年計砂時計で、ここでは「砂暦(砂ごよみ)」と呼ばれている。

この砂時計が完成したのは1990年で「ふるさと創生事業」の一億円を使って製作された。
そして1991年1月1日午前0時を期して町民がロープを引いて砂時計を立ち上げ時を刻みはじめた。以来毎年大晦日に新年の干支生まれの町民がロープを引いて砂時計を反転させるならわしになっているそうである。
この仁摩に砂時計が作られたのは、仁摩には「鳴り砂」で有名な琴ケ浜海岸があり、この砂のイメージから作られたようである。はじめは当然この琴ケ浜の砂を使用する予定であったが、試作砂時計でテストをくり返す中、直径1mのこの砂時計のオリフイス (中央のくぼんだノズルのところ)の径はわずか0.84mmであるため、砂の性質から途中で砂が引っかかって止まる可能性があり、琴ケ浜の砂の使用をあきらめ全国の砂でテストをくり返し、山形県の飯豊町の砂が使用されている。
この砂は約6400億粒あると准定され、1秒間に約2万粒の砂が休みなく1年聞落ちつづけるのである。
天井近くに吊り上げられている砂時計は私が見る前にイメージしていたのとは違ったが、反転させる時のことを考えるとこうなってしまうのだろう。そのほかに、ここには砂のオブジェや鳴り砂の資料も展示され、1週間計など試作された砂時計も展示されそのうち10日計は実際に時を刻んでいる。
そしてふれあい交流館にはガラス工芸の体験ができるガラス工房もあり砂時計をはじめとした砂やガラスにちなんだグッズの販売もされている。

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 仁摩から南東へ約6kmに石州銀といわれた石見銀山遺跡がある。1526年に発見されたといわれる石見銀山は、最後には銀の産出は無く銅山として1923年(大正12年) に閉山となったが最盛期には世界の三分の一、年間約40トン近い銀を産出していたという。この銀山一帯が現在は鉱山遺跡として国の史跡となっている。銀出への入口に石見銀山資料館があるがこれは大森代官所跡である。
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大森代官所跡から銀山町までの約1kmは大森町で漆喰壁や格子戸の民家、また銀山で働く人々の信仰の対象であった寺社が続き江戸時代の名残が見られる。そのうちの1つ、羅漢寺には銀山川の支流に3つの石の反り橋が架けられ、それぞれの橋の向側には石窟がある。
三ケ所の石窟には合計501体の石仏が安置され昔から五百羅漢として親しまれている。羅漢寺から上の方が銀山町で約2kmのところに龍源寺間歩がある。銀を掘るための坑道を間歩(まぶ)といい、500あまりある間歩のうち、ここだけが公開されている江戸時代の間歩156mに新しい坑道を116mつないで272mの坑道が通り抜けられるように整備されている。
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間歩に入って行くとひんやりとした空気がほほを伝う。温度計は18度を指していた。江戸時代の坑道はノミのあとも生々しく当時のままで、左右の壁からはたくさんの横穴が掘られている。また排水のために掘ったという垂直の竪坑は見上げればかなりの高さがある。そして新坑道には「石見銀山絵巻」を電照板にして展示してあり当時の鉱山の様子を見ることができる。
ここ石見銀山を中心として大田市、仁摩町、温泉津町にまたがる一帯が石見銀山遺跡として国の世界遺産候補リストに上がり現在、学術調査が行われているそうである。


(株)ダイワ  社員 M氏

水の都小京都 松江を訪ねて

ちょっと一息 | by ダイワ
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城や堀、武家屋敷と白壁など風土、文化、歴史が京都と似ている町。
そんな「小京都」をたずねて今回は鳥根県松江市です。

山陽道、岡山道、中国道、米子道と乗り継ぎ米子からは国道九号線を西へ。九号線は米子市、安来市は交通最も多く姫路から三時間半で松江市に着いた。
松江といえば水の都とも言われるように真っ先に思い浮かぶのは宍道湖、その宍道湖から中海へそそぐ大橋川に四つの大橋が架かっている。そのうちの東の端のくにびき大橋を渡って城下町へ車を走らせる。

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県庁の所在地であるので車はかなり多いが大橋川を南から北へ渡り幹線道路を外れると静かな城下町の雰囲気がただよう。

千鳥城とも呼ばれる松江城は姫路城のような白壁の部分は少なく下見板という黒い板で覆われていて姫路城のような優雅さは無いがどっしりとしている。松江城の入口で城と武家屋敷、小泉入雲記念館の共通入場券を買ったので大手門を出て城の北堀沿いの塩見縄手通りの武家屋敷へ行く。

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中級藩士の住んでいた建物がそのまま保存されたもので長屋門もある屋敷内はかなり広い。また屋敷の裏には松江の秋祭り「鼕行列」に用いられる鼕も展示されている。
続いて並んでいる小泉八雲記念館に入る。

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八雲(ラフカデイオ・ハーン)は三十九歳のときに新聞記者として日本へ来て、まもなく松江の中学枚の英語教師となった。そのとき女中として身の回りの世話をしていた旧家の娘の小泉セツと結婚し、松江に一年三ケ月間住んだ。
八雲が松江に居たのはわずかの期間であったが、八雲は松江を終の住処にしたいと思ったほど深く愛し、松江にいたころあるいは後に松江のことを思いながら多くの書物を著したといわれている。そんな八雲の用していた机や原稿など遺品や資料が展示されている。

八雲記念館から歩いて十分ぐらいのところにある地ビール館へ行くとその脇に掘川めぐりの遊覧船の乗り場があったので乗ることにした。
遊覧船といっても十人ほどが乗れる小舟にエンジンと簡易な屋根を付けた舟である。両岸から川面にせり出すように伸びた樹々の間を抜け、また宇賀橋のあたりでは川の上から黒塀の松江城をながめられる。

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水辺に飾り物のように身動きせずに獲物を待つ青サギや甲羅干しをする亀の姿、掘の上から見る塩見縄手の白壁と松の緑など自然に心が和む。
途中、舟は十六の小さな橋をくぐるがそのうち何ケ所かは橋桁が低く舟の屋根を下げなければ通れない。舟の屋根は斜めに倒れるようになっており.私たちは屋根といっしょにおじぎするように首を曲げて通りすぎた。
そんな遊びごころもあるこの舟は三ケ所の乗り場があり一度降りて町を散策して、もう一度降りたところから乗ることができる。

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四十五分間の遊覧を終え、みやげ物店を物色しながら夕暮れ近くになるのを待って島根県立美術館へやって来た。美術館に来たのは絵や彫刻を見るためではない。
館内のグツズの売店をのぞいたり備えつけのパンフレットを見ながら待つこと二十分あまり、「おお−」というような人々の感嘆の声とともに傾きかけていた太陽がオレンジ色に変わりそれまで太陽の光を反射して白く光っていた宍道湖の湖面がオレンジ色に輝く。
水平線近くでは雲にかかったが嫁ヶ島の松をシルエットのように浮かびあがらせて沈む夕陽は思わず「きれいやなあ」と声が出るほど美しい。団体ツアーでは組み込まれることの少い「宍道湖の夕陽」は宍道湖遊覧船の上から見るサンセットクルージングもあるが、県立美術館は日没三十分後までロビーを解放しており夕陽スポットとして人気でアベックや家族連れがたくさん来ていた。

この宍道湖の夕陽はおすすめです。

美術館をあとにして宿泊地の玉造温泉まで三十分、ホテルに着いたときは団体客の入浴時間帯も終っており大きな風呂にゆったりと浸かることができた。

松江にはそのほか不昧公〔七代藩主松平治郷〕ゆかりの茶の湯の名品を展示する田部美術館、松平家の菩提寺で紫陽花のきれいな月照寺や古墳史跡の風土記の丘などがあり、また周辺には一年中ぼたんの花が見られる大根島由志園、眼のやくしといわれる一畑楽師、海ねこと灯台の日御崎、そして出雲大社と、見どころも多く好みに応じて神話と伝説の町も満喫することができる。

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(株)ダイワ  社員 M氏

備中の小京都 高梁市を訪ねて

ちょっと一息 | by ダイワ
姫路から高梁へは山陽自動車道を経て岡山自動車道・賀陽インターからが近いが、私は総社インターから総社市内を抜け国道百八十号線を北へ走る。途中伯備線と併走したり、高梁川の清流を眺めながらドライブを楽しんだ。


<薬師院松連寺>
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高梁川では河原でキャンプ中の人たちや水上バイクを楽しむ若者の姿も見られる。

高梁市へ入ると高梁大橋のあたりから国道沿いの左手堤防上に設置された城の白壁を思わせるような土塀が迎えてくれる。
観光駐車場を通り過ぎたあたりを右へ折れ臥牛山、備中松山城をめざす。城見橋公園駐車場でシャトルバスに乗り替えて約十分でふいご峠に着く。そこから、現存するお城の中では一番高地にあるというお城まで歩いて山道を登ること十五分あまり。やっと標高四百三十メールに建つ備中松山城へ着いた。


<備中松山城>
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お城は二層三階の天守の小さなものだが高地にあるだけに天守閣からの眺めはすばらしい。
天守閣からの景色を眺めながら汗が引くのを待って城をあとにした。
市街地までもどり昼食のあと、室町時代に城主の菩提寺として建てられたという禅寺・頼久寺を訪れた。
小掘遠州作の枯山水の庭が有名な寺で、小さな庭ながら借景の愛宕山を背に石組み飛び石の配置と砂紋、つつじ、さつき、もみじなどの樹木との取り合わせが心を和ませる。
写真愛好家もよく訪れるそうである。
頼久寺周辺は小さなお寺が連なり、人口二万五千人あまりの小さな高梁の町に十六ものお寺や神社があるという。これらのお寺は備中松山城の城下町の砦として建てられたといわれている。

<頼久寺>
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特に町の東のはしにある薬師院松連寺は石垣の上に立つお城を思わせるたたずまいの白壁の寺である。
 次に訪れた武家屋敷館は小さな武家の屋敷を保存したもので特に目新しいものは無かったが、受付のおじさんが親切な人で散策マップを拡げて郷土資料館、商家資料館の説明から道順、所要時間までを、「こんな小さな町だから歩いてゆっくり廻って下さい」と教えて下さった。
そこから昔の豪商のあとの商家資料館を経て、元尋常高等小学校の建物で、明治洋風建築を保存し資料館として使用している郷土資料館を訪ねた。
生活民具から農耕具まで所せましと並ベられている。ここの館長さんがまた気さくな人で、これらの資料の説明から記念撮影のカメラのシャッターまで、訪れる人たち皆に声をかけてくれる。

「どちらから来られましたか」
「姫路の方も時々来られますよ」

と声をかけられ何となくうれしくなった。

寅さんの「男はつらいよ」シリーズで二度もロケ地に選ばれたという高梁の町並みの風情と人情味あふれる人に出会えた一日だった。 

武家屋敷館、郷土資料館、商家資料館にはそれぞれ小さいが無料駐車場があり、どこかの駐車場に車を駐車してちょうど一日遊べる町だ。
人があふれかえるような観光地ではないが、それでも夫婦づれや女性のグループにたくさん出会ったし、川と白壁のある静かであたたかな町である。

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(株)ダイワ  社員 M氏

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